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COLMUN
元テレビ朝日台北所長の海外放浪記 
四方見聞録
~摩天楼から一膳飯屋まで~
~世界が、人が、そして心が見える~

「台湾の中国料理、全然美味しくないじゃん!」中国青年が見た台北②

台湾

2019.04.15

屋台料理

「台湾と言えば屋台が名物。担仔麺と魯肉飯は台湾を代表する屋台料理だ」

Mを台北の名だたる料理屋に連れて行っても無感動どころか、美味しくない、の連発だった。確かに初めて台北を訪れた1982年12月と今の台湾の中国料理との間には大きな懸隔がると感じざるを得ない。その年の夏には北京を訪れたが、有名な老舗北京ダック屋で1時間以上行列して漸く味わった北京ダックよりも、台北の路地裏の方が味もサービスも断然上だった。しかし今では台北で北京ダックを食べようとも思わない。北京に脚が向いてしまう。

北京、広東、四川と並んで中国の4大料理で、Mの故郷の味である上海料理といえば小籠包子(北京語では「シアオロン・パオズ」、上海語では「ショルン・ムドゥ」。「ショーロンポー」などというのは古くは藤村有弘、今ではタモリのインチキ中国語なのでご注意を)が代表選手。日本の百貨店にも出店している台北の名店に連れて行ったが、こんなの上海の大衆食堂の方がまだ美味しい、偽物だと怒る。その名店は山西省出身の外省人(1949年、国共内戦に敗れた蒋介石国民政府と共に遷台してきた大陸出身台湾住民)が開店、ニューヨークタイムズのお褒めに預かったことから世界的に有名になった。

台北在勤中は勿論、帰国した今もしばしば訪れてはいるが、小籠包子よりは器ごと蒸した鶏湯(鶏スープ)と炒飯がお目当てになっている。看板の小籠包子は本家、上海のものに比べるとあっさりしすぎていて味わいや深みに乏しいからだ。

最近では小籠包子と同様、台湾を代表する美食と言われる牛肉麺も実は台湾が発祥ではない。台湾では牛を農耕用に使役していたので、その肉を食する伝統はない。在勤中、週に一回は必ず足を運んでいた牛肉麺屋の当主は頭に小さく四角い帽子を常に被っていた。回民と呼ばれる中国のモスリムで出身は北宋の都、河南省開封から台湾に逃れてきた外省人だった。Mを連れて行って牛肉麺をどう評価するか訊きたかったのだが、当主が10年ほど前に亡くなり、子女は廃業の道を選んでしまった。それ以来、台北で牛肉麺を食べようという気にならない。

台湾の中国料理はどこで変質してしまったのか? 台北在勤中、ある雑誌に寄稿したのだが、台湾の民主化から始まったと考えている。台湾の民主化は国民党の一党独裁からの脱却がその本質で、蒋経国がそのレールを敷き、蒋経国の急死で後を襲った李登輝がそのレールの上の機関車と客車を前に進めて完成させた。ただ、李登輝政権末期から2000年、民進党に政権が交代した前後から台湾化、本土化(この本土は大陸ではなく、台湾を自らの本土とするとの意味)が叫ばれ、「中国国民党(国民党の正式名称は今でも中国国民党)」一党独裁からの脱却は「国民党」だけではなく「中国」をも除去しようと悪乗りしてしまったのである。陳水扁民進党政権下では台湾のフラッグキャリアである中華航空の中華を、中国精油の中国を台湾に置き換えようなどと児戯に劣るバカ騒ぎに明け暮れていた。

折しも1949年の国共分裂から50年余、半世紀以上が過ぎようとしていた。蒋介石が大陸から連れてきた特級、一級の料理人が鬼籍に入る時期である。彼らが大陸から台湾に持ち込んだ中国料理の精髄ともいうべき技術と美味は下らぬ政治闘争のため、本省人(1949年以前から台湾に住んでいた漢族)の料理人に伝承されることがなかったことがMの嘆きにつながっている。

それでもMは夜遊びの帰りに屋台で蚵仔煎(小粒の牡蠣のお好み焼き)や魚丸湯(つみれスープ)などを買って来てはニコニコしながら頬張っている。台湾に美味しい料理はないって言っていたじゃかないか、と蒸し返すと一言呟いた。
「これは料理じゃないよ、お惣菜。不味くはないけど、お惣菜食べるためだけに台北にくることはないね」
Mが故郷、江陰で食べさせてくれた揚子江河豚煮込みの美味が舌の上に甦り、心は台北から江陰に翔いていった。

甘粕代三(あまかす・だいぞう)
1960年、東京は隅田川の畔で生まれる。早大第一文学部在学中に中国政府給費留学生となり大陸へ2年遊学。東京新聞記者、テレビ朝日台北・マニラ支局長、サンデープロジェクト・チーフディレクター、朝まで生テレビ・プロデューサーなどを経て売文業。アジアを中心に世界各地を流浪、日本、香港、台湾、大陸で時事、競馬評論を展開中。